プロフィール

初めまして。

毒親卒業メソッド、

心理カウンセラーのあきです。

私がカウンセラーになろうと思ったのは、私の生い立ちが深く関係しています。

東京都出身。父、母、私の三人家族

私の人生は、生まれた直後から波乱の幕開けでした。

私が生まれてすぐ父が母に言い放った言葉です。

母は、私が5歳になったくらいから何度も父が言ったこのセリフを呪いのように私に聞かせてきました。

自分の子供に対してこんな言葉を言い放つような父ですから、周りは父と離婚するように母に進めました。

ですが、母は経済的な理由から離婚しようとはしませんでした。

母『お父さんはお金を稼いでくるから』

母『離婚なんてしたら私にはお金が稼げないから生活していけない』

と母はよく言っていました。

この様に、母は小さい私に父がいかに経済的に大事な存在かという話をよくしていましたが、その反面、母は父の愚痴もよく私に話していました。

若干の矛盾を感じながらも、父に養ってもらうために母の愚痴を聞き続けることは当たり前の事と思って聞いていました。

私がお母さんを助けている!支えている!という優越感の様なものすら感じていました。

それと同時に、そこまで父の事が嫌ならなぜ離婚しないんだろう?私は貧乏でもいいのに。とも思っていました。

私の一番小さな時の記憶は、3歳の時、父が用意していた贈答用のバームクーヘンを食べてしまってお仕置きで叩かれるというものです。

虐待は父と母、両方から受けました。

怒鳴る、叩く、蹴る、納豆ご飯を頭からぶっかけられる。

ひらがなの書き取り帳を目の前でビリビリに破かれる。

等々、上げていくとキリがないのですが、

こんな調子だったので一週間のうち半分は怒鳴られたり叩かれたりしている!

と指折り数えている子供時代でした。

いつ両親のどちらかが機嫌を損ねて暴力を振るったり暴言を吐かれるかわからないので、家では常に緊張していました。

学校が私の避難所の様な役割を果たしていました。

両親は従兄弟同士ですが、金銭をはじめとする親族間のトラブルも多く、母は私が8歳の時にうつ病になりほとんど寝たきりの状態になります。

母は小さな私に親族の愚痴を連日言い続けました。

私は母の役に立ちたくて献身的に話を聞いていました。

『どっちが親かわからない』これが母の口癖です。

私が小学校低学年の時点で既に親子関係の逆転が始まっていました。

中学、高校に通い始めると、自分の家族が他の家族と違うことに気づき始めました。

他の家の子は怒られることはあっても、日常茶飯事的に怒鳴ったり叩かれたりはしていないということがわかってきたのです。

そして、

母『お父さんには絶対に口答えしたり逆らったりしちゃいけないよ。口の中が切れるほど殴る人だから、逆上して殴られて打ちどころが悪ければ死ぬんだからね』

母『家の中のことを外の人間に言うんじゃないよ』

と言う様な事をよく言われていましたが、周りにそんなことを言われている子はいなさそうだし、家のことは口止めされていたので他人には一切しゃべりませんでした。

というか、しゃべれませんでした。

しゃべるな、と口止めされているのにしゃべった事が親にバレたらどんな目にあうかわからないし、

怖すぎて、実際は両親から怒鳴り叩かれているのに、周りには自分の両親がいかに良い親かというアピールをしていました。

母から『私がいなければお前は高校卒業すらできない』と脅迫され続けていました。

両親からの精神的支配に押しつぶされそうな毎日でした。

10代の時はこのままこの家で耐えるか、児童相談所に行くか、葛藤する日々でした。

なんとか専門学校卒業まで耐え忍んでやり過ごし、映像業界に入りました。

個性的な人間、生きづらさを抱えた人間が多く集まる業界でした。

自分と同じ様に生きづらさを抱えている人がまわりに多く、初めて居場所ができた様な気がしました。居心地も良く、仕事にのめり込んで行きました。

そして、気がつくとプライベートはほとんどなく常に仕事100パーセントのワーカホリックになっていったのです。

仕事にのめり込む私を、当時付き合っていた恋人は心配してくれました。

私は仕事が人生で一番大事と思い込んでいたので、家庭に入ることは考えていませんでした。

恋人から『見捨てない、裏切らないから』と言われ、仕事を辞め、同棲を決断します。

初めて本当の家族が出来たようで嬉しかったし、救われたような気持ちになりました。

ですがそんな幸せは束の間でした。

同棲生活をスタートし、これからどうやって生活していくか相談を持ちかけたところ

『俺は家事はやらない』

『俺はずっとこうだし変わっていないよ』

と言われ、身体中の血液が床に落ちる様な絶望感を味わいました。

せっかくあんなに嫌だった実家から逃げ出してきたのに。

やっと私も幸せな家族を持てると思ったのに。

悔しくて仕方ありませんでした。

それでも諦めず恋人の気に入る生活に合わせて過ごしました。

毎日の様に怒鳴り合いの喧嘩でした。

ストレスがピークに達し、死にたい気持ちが湧いてきました。

その気持ちはどんどん大きくなり、自分ではどうしようもないほどの大きさに膨れ上がりました。

恋人とひどい共依存状態になり、関係が破綻し、どうにもならなくなった私は二人で暮らしていた家を飛び出し一人暮らしを始めます。

自分で自分の命を絶ってしまう衝動に襲われ、なすすべなく繁華街を徘徊したりしていました。

このままでは自分で自分の命を絶ってしまう。

追い詰められた私は毒親、心理学関連の本を読み漁ります。

経済的にも厳しかったのでお金のかからない方法で地道に模索を始めました。

図書館で本を借りる、ACの自助会へ参加、内観、宿坊、短期の心理ワークショップ。

コツコツやっていくと死にたい衝動は薄れて行きました。

模索するうちに、毒親という概念と出会います。

毒親である両親を自分の人生から排除すれば、私の人生は楽になる。

そう考えた私は、両親との対決に挑みます。

毒親関連の本には対決については賛否あります。

それでも後悔だけはしたくなかったので、結果がどうあれやれることはやっておきたいという思いがありました。

両親への本当の気持ちを告白することは私にとっては簡単ではありませんでした。

【父が逆上して殴ってきて事件になったらどうしよう】というすさまじい恐怖との戦いでした。大袈裟ではなく、両親との対決は私にとっては決死の覚悟でした。

父と母、私の三人で話し合いをしました。

私『お前が勝手に産んだんだ、ってお父さんから言われたことにずっと傷ついてきたし、お父さんのことを憎み恨んできた』と勇気を持って父に伝えました。

私は両親が謝罪をしてくれるのではないかと大きく期待をしていました。

父『それじゃあ縁を切るしかないね』。

母『お前は私たちと一緒にいると幸せになれないからこれからはもう会わない方が良い』

という信じられない言葉が返ってきました。

捨てられたんだ!やっぱり私はいらない子だったんだ!

激しい突き上げるような悲しさ、悔しさ、やりどころのない怒りが体の中を駆け巡りました。

これは流石に一人で受け止めきれませんでした。

幸運なことにその時付き合っていた恋人は『それなら、そんな親ならもう会う必要ないんじゃない?』と言ってくれました。この言葉に支えられ、親から離れる覚悟を決めます。

私は親に伝えることなく、本当に辛かった時に支えてくれた恋人と結婚しました。

結婚生活はぎこちなさはあるものの、私の人生で初めて安心で安全な場所が手に入った安堵がありました。

仕事の方もパワハラを同時に何度も受け精神的に参っていた私は傷病手当をもらい休職。結局は退職し、夫の勧めもあり夫の実家に静養も兼ねてお世話になることにしました。

引っ越す前に義母と夫と三人で最低一年は心と体をゆっくり休めるために居候させていただく話になっているはずだったのに、いざ引っ越してみたら実家に着くや否や義母に『3ヶ月、長くても6ヶ月以内には出て行ってね』と言われ、ショックのあまり私は寝込んでしまいました。

これまで逆境をバネに頑張ってきましたが、人生で初めての無気力な日々を送ることになります。

初めて寝込むことができる様になった。そう思えたのもこの頃です。

義母の暴言による嫁いびりは日に日にエスカレートし、周りの家族が止めても止むことはありませんでした。

【私のの人生はどこへ行っても嫌がらせにあう人生。何をやっても報われない人生】そんなことをぐるぐる考えながら生活していました。

すると、消えたと思っていた死にたい思いが前より大きくなって再び現れてきました。

自分の命、人生に対してヤケクソで投げやりな気持ちでした。

精神的に追い詰められ、限界を迎えた私は家から歩いてすぐの海へよく散歩に行きました。

死んでしまいたい。生きていたくない。という考えがずっと頭にへばりついていました。

自分の親から虐げられ、夫の親からも虐げられた。

自分の親は私を捨てたけどもしかしたら、もしかしたら、夫の母は私に優しくしてくれるかもしれない。今度はちゃんとした私のお母さんができるかもしれない。

そんな期待は本当にあっさりと砕け散ってしまいました。

世間や周りの人間、自分に対しての怒りと憎しみがエスカレートしすぎて、死んでやる!というヤケクソな気持ちでした。苦しくて仕方ありませんでした。

【夜の海に入ったら死ねる。楽になれる】

そんなことを考えながら街頭のない真っ暗な海を眺めていました。

不思議と真っ暗な夜の海は怖くなく、海の音、潮の匂い、海からの風を感じながら座っていると心が落ち着きました。

海に行ったり、自然の中で過ごして苦しい状態をやり過ごしながら私は考えました。

このまま死んで良いのだろうか?本当に、本当に、他に何かできることはもう無いのだろうか?

【そうだ、どうせ死ぬならその前にダメもとでがっつりカウンセリングを受けてみよう】

そう思いたったら、あれ?私死にたいんだと思っていたけど、もしかして本当は生きたいからこんなにしぶとく生き残る手立てを考えているの?と思えました。

力が湧いてくる様でした。

死にたいと毎日の様に言う私に対して、夫から『カウンセリングに通って欲しい』と提案がありました。

夫は丁寧に説明してくれました。

夫『あなたが死にたい死にたいと言って騒ぐやばい奴だ!と差別しているのではなく、苦しみを減らすには専門家を頼るのが良いと思うから』

夫からそう言われて、【見守ってくれた夫に申し訳ない。このままで終わってはいけない】そう思えました。

私の覚悟はこの時しっかりと固まりました。

なんだか追い風が吹いているような感覚でした。

すぐに定期的に通うカウンセリングに申し込みをしました。

【何年かかっても、必ず回復してみせる】

強い気持ちでカウンセリングに通い始めました。

カウンセリングは劇的に効果がありました。

まず、3ヶ月で死にたい気持ちがどこかに消えました。

父や母が夢に出てきてうなされたり、絶叫して起きる事もこの頃からなくなりました。

あれだけ本を読んだり色々試しても消えなかった死にたい気持ちや両親への執着、生きづらさはカウンセリングによって癒され、今となっては懐かしいと思えるくらいです。

カウンセリングを受けながら、

『こんなにすごい仕事があるの!?私もカウンセラーになりたい』と思う様になりました。

現在は、夫と幸せに穏やかに生活しています。喧嘩もないです。

【自分の人生をいかに無責任に生きてきたか】

カウンセリングを通して最初に得た大きな気付きです。

こんなに幸せに生きられるんだったら10年前にさっさとカウンセリングに通っていたらもっと楽に生きられたのに。今ではそう思います。

私はラッキーでした。

カウンセリングを受けようと決断できたこと。

死なずに済んだこと。

何をしても報われない両親にとらわれた人生から、自分らしく幸せに生きる人生を手にいれることができたこと。

自分が変わり、成長し、未来に希望を描ける様になったこと。

そして、今お辛い状態の方もカウンセリングによって人生が変わる。

私はそう確信しています。

現在は毒親卒業カウンセラーとして活動しています

私の様にカウンセリングで幸せになる人を増やしたい。

そんな思いから私がかつてカウンセラーにしていただいた様に、じっくりとお話を伺い、クライアントさんと一緒に相談しながら癒しに向かって進めていくスタイルを心がけています。

親に対しての不満や疑問というのはなかなか他人に話しづらいと感じる方も多いかもしれませんから、安心で安全な場所であることが最優先に話しやすい場であり続けたい。という思いを念頭に活動しています。

お話を伺った方からよく『話しやすいね』と言っていただけるのですが、心がけが通じているのかな、と感じています。

自分と関わった人達が、『こんなに変わったよ!』『一年前はこうだったのに、不思議だねえ』等、その後のご報告をいただくと1人、また1人、と【幸せな人間が増えた!】と心の中で手応えを感じては私自身も幸せな気持ちになります。

私と同じように親に苦しめられている方。苦しめられた方。

こんな親の様にはならない、と思っていたのに娘(息子)を否定したりコントロールしてしまい苦しんでいる方。

親に苦しめられているのかもしれないと、自分の気持ちに自信がない方。

どうせ私の人生は〜。と希望が持てずに生きている方。

私はそんな方が幸せに生きられるように、お手伝いさせていただきたい。

私がカウンセラーに寄り添ってもらったように、今度は私が寄り添っていきたい。

そんな思いで活動しています。

今、絶望していても、幸せになれる道はあります。

そして、癒された暁には、人生捨てたものではない。そう思える未来が待っています。